3年前の震災以来、気になっていたのですが、なかなか機会に恵まれずにいましたが、
東北を忘れない、現地に行くことが、支援に繋がる・・・と思い、日程の調整もできたので、
思い切って行ってきました。
現地では、ボランティア語りべの話を聴いたり、土台だけ残って、何もない土地を見たり、
復興のクレーン車やトラックが広い土地のあちこちに動き回っているところを見て来ました。
さすがに、がれきは取り除かれ、更地になっていますが、道路の両脇には、そこに立っていたであろう電柱の残りや、駅前広場の前の台座だけが寂しく残っています。
マンションの3階までがくりぬかれたように、窓枠が叩き壊されているもの、4階立てのビルの屋上の上にある搭のところに、ここまで津波が来ました。と記されている建物。山を削って、埋め立てるためのベルトコンベヤーが設置され、トラックで運べば15年かかる・・・ところを 数億円かけてベルトコンベヤーをつくり、これで2年で山を削って、土地が完成するとか・・・
確かに復興するための槌音はそこここにしているのですが、この先あまりに時間がかかるのではないかしら・・と、胸塞がる思いでした。
でも、津波の被害・・空恐ろしいほどの力で迫ってくるものですが、それにも増して恐ろしいのは、放射能におびえて、逃げ惑う生活を余儀なくされている、原発被害者の皆さんではないでしょうか。
天災は致し方ない面もありますが、人災だけはもう2度と起こしてはならないですよね。
天災国日本には、絶対原発はいらない。強く感じて帰ってきました。
バラックづくりの土産物屋、少しの買い物だったのにいつまでも手を振って見送ってくださいました。 |
動き出した、ベルトコンベヤー
山を切り崩して、土を運ぶもの
このビルの搭の上にここまで津波が来ました」との表示が掲げられていました。
2泊目に泊まった田野畑村の「ホテル羅賀荘」
早くに復興して地域の人たちの働く場所を確保した。この3階部分を津波は乗り越えて行った。
浄土ヶ浜で1隻だけ残った遊覧船で宮古湾遊覧
田野畑村で震災語りべボランティアの話を聞く